私は、エネルギーのことばかり言っているように見えますが、実は色んな仕事に関わっている。その全貌はここでは置いておくとして、エネルギーの理解を推奨するのは「時代とともに変動する知識を手にするよりも、普遍の知識を学んでいた方が一生使えますよ」という教えなわけです。

小手先のテクニックではなくて、そういう本質的なアドバイスを、あなたもキャッチされているでしょうか?

世の中に、ある種の法則があることは誰もが感じているかもしれません。その源流である見えないエネルギーの流れの論理を理解してから「目に見える自分のやりたいこと」に羽を広げた方が失敗しなくて済みますよということです。

それらは僕の経験則で、僕は、新卒社会人の頃からとにかく仕事ばかりし、様々なビジネスセミナーや教材にも手を出したが、その殆どは時代と共に使えなくなったり、ビジネスをする場所が変わればまた話が違うものとなった。

そういう失敗を「みんなはしなくていいと思う」というのが「経験者は語る」というものであって、私が未だに日々、東京で革新的なものに触れ続けるのは、そう言った経験的遺産を後世に残すために他ならない。それが年長者として当然の役割です。

さて皆さんは、「明日会社を辞める」とか、「新しくお店をオープンする」とか、そういう出来事があるとドキドキされるかもしれません。

明日はどうなるか分からないような一世一代の跳躍をされると、その度に、人生における大きなドラマに思えることでしょう。ただ、僕はその一世一代の跳躍を、遠慮がちに言っても6回はやっている。そんなことを競って言うわけではなく「それくらい跳躍しても、案外、生きてるぞ」という人間のタフさを小耳に挟んでおいて良いと思う。

それでは、私がスーパーマンのように持ち前の手腕や、頭の良さや、人の良さでそれらの跳躍をスムーズに乗り越えてきたかというと、考えてみたらそうではない。一生に一度の挫折というもの(もう自分の心がポッキリ折れて、二度と立ち上がれないような症状)には、のん気に笑いながら数えても3回はなったことがある。

そうやって、のん気に笑えるのは、面白いことに挫折をしたとしても、そこで話は終わらないということである。挫折して舞台を降りたら(辞めたら)そこで話は終わる。しかし「挫折したなぁ〜」って言いながら、そのまま挫折した状況を過ごしていたら、次の展開が始まるのである。つまり、失敗では終わらない。

ここには2つのポイントがあって、挫折するならしっかりと一度は「折れる」ことである。そういう瀬戸際で折れないように踏ん張る人がいるが、私の知る限りそういう人は「次のステージに進めない」。

僕は、そういう経験があるから「折れる」ことの大切さを知っている。でも、例えば周囲で「もう少しで折れそうだ」と愚痴ってるやつが居て、なら親切心で折ってやろうかとすると、大抵ダッシュで逃げられる。「なんだ、まだ走る力が残ってるじゃねーか」と思う。

そう、折れたら終わると思ってるから、その前に他人に甘えて、折れないように何かを補充する。人間のその心理が、すべての「早合点」の根底にある。

この話は、失敗の根底にあるのは「早合点」なんですよ・・・ということだが、早合点の根底を先に語ることになりました。


早合点というのは「よく聞いたり確かめたりしないうちに、もう分かった気になる」ことです。多くの人は、この早合点をライフワークの一環として行なっています。しかし、もう一度、念を押して言っておきますが「早合点」はあらゆる失敗の元となります。

現代人の弱点は、結論を急ぐという点です。

まだ結論に至っていない生半可な回答を、それを結論だとして無理やり提出し続け、その努力の結果、どれも虚しく実らないということになる。

多くの人は「自分はこれ以上は考えない」というボーダーラインを決めています。そのボーダーラインは、案外、よく見える。

対話をしていても、その人の「これ以上は考えない」というボーダーラインを越える話を持ちかけると、白々しく席を立ち居なくなったり、知らんぷりをします。皆さんの周りにも、そういう人はいるはずです。

その「これ以上は考えない」ボーダーラインというのは、その人が「早合点して決めた境界線」なんです。その人は、そこを「結論」としたわけです。だからそれ以上、先の結論には進めない。それが大きな失敗なんです。なぜなら、そういう人がその後、大発展的な人生を歩むとは到底考えられない。なぜなら全ての上昇は、勢いのある流れの先にしか生まれないからです。

さて、最後に話を手前に戻しますが、人間は、よく聞いたり確かめたりしないうちから人生において折れたり転んだりすることが恐いと思っていて、そうならないように身を守るつもりで、よく聞いたり確かめたりしないうちに結論を急ぎ、そして失敗するという、とんでもないロジックに嵌っていることに気づいてますか?というお話でした。

人の話を素直に聞くという基本を、もう1回やり直した方が良いのではないかということですね。

人の話が懐疑的に聞こえるのは、それが疑わしい話なのか、本当の話なのか、本質を見極める力があなたにないからです。早合点して決めた境界線の中にいるうちは、そういう力を伸ばすことができないわけです。それで一生を生きた結果、人生についてどれだけ理解できるかは不明です。


今月、8月26日(金)から大分県大分市にて人間のエネルギー講座、第3期生がスタート。月に1回で計6回の開催となります(その後の日程は生徒と講師で調整して決定)。

受け付けに当たって、今日、主催者にこんなことを伝えた。

「エネルギーの世界に足を踏みれ入れるタイミングというものがあります。僕はエネルギーの世界に足を踏み入れるタイミングが巡ってきたら、ラッキーなことだと思う。一生巡って来ない人もいるわけですから。

で、足を踏み入れる時は、金額だとか、講座の内容に関する細かい質問とか、その人の「脳」(物質)はごちゃごちゃ言うかもしれませんが、その人の「エネルギー」はその人をエネルギーの世界に連れて行きたいはずなんです。

だから、最終的にその人のエネルギーがその人の背中をポンと押せばエネルギーの講座の扉は開くんです。裏でそういう力が働いてるんです。僕は、講座を開くときは、そういう力の働きを眺めて見守っています

エネルギーの講座は、かれこれもう50人以上が卒業していますが、エネルギーのことを分かっていて学びに来る人はいないですね。みんな「よく分からない」から学びに来られる。講座というのは「全く分からないこと」こそ、教えるにも教わるにも価値があり、得るものは大きい。

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人間のエネルギー講座について


たまには、私からはどのように世界が見えているのかを、書いておこうと思います。

それは、やはり普通ではないですよ。ただ、よく生徒に言いますが、普通ではないことをやるならば、よほど普通のことを知っていなければならない。スポーツでもそうですが、基礎が分かっていない人間は、自分勝手に振舞っているだけで「超越」ということができない。ただ単純に型破りな人間であれば、今度は、他人に教えることができません。

だから人間というのは、最初は凡人であっていい。親が普通でも、ごく普通の家庭に育ってもいい。何も才能がなくてもいい。私はそもそもそこから始まっているから、だからどうやって、どの道をたどって、こういう見地まで来たか自分で良く分かっている。おそらく昔から他人と何か違う人間は、「何が他人と違うのか」をいまだに理解していない。

エネルギーということをお伝えしていると、特異な才能を持っている人や、一風変わった人達も私のところへ訪れる。しかし、そういう人達を見ていると、「ああ、なるほど、この人は、こういう角度では物が見えないらしい」と気づかされることがよくあります。この人は全体のうちの「ココ」を見ている、あの人からみたら、この出来事はこういう風に映っている・・・ということが手に取るようにわかる。それは、私が普通に様々な人の目線に立って働いてきたからよく分かる。

例え、私がエネルギーという見地を持っていて、人よりも何かがわかるとしても、仕事で対応するクライアントさんというのは、そういう人達ではなく、様々な家庭環境や、立場や年齢や所属する社会団体というものがある。主婦の方や、おばあちゃんや、学生ということもある。当然、それらの方達の「目線に立って」対応しているわけで、それが何万回も施術をしてきたとなると、様々な視点を知ることになる。

私がエネルギーについて分かるかどうかなど、来院したクライアントさんにすればどうでもいい。ただ、他より結果が出るとか、そういうメリットがあるから私のところに来るわけで、それがエネルギーだろうとなんだっていい、それは私がクライアントさんだったらそう思うのだから、それで良いと思う。だから、特異なものを披露することはあっても、押しつけることはしたことがない。私の話に興味を持つ人がいて、学びたい人には教える。しかし、自己顕示のために教えるのではないのだから、相手の目線に合わせて教える。相手が自分の目線を高めようと、一歩踏み込んだ質問をしてくればそれについて語る。相手がこれ以上、聞きたいことがないというなら、それ以上のことを知っていても語ることはない。その体裁は、昔から変わらない。

そのようなわけで、私から世界がどのように見えているか結論につなげていくと「境界線がない世界」に見えている。もちろん普通の日本人の一般的社会観も持ち合わせているので、二つの世界がオーバーラップして見えていることになる。

例えば、施術をしているとする。私はその時、相手の体を「他人とは思っていない」。エネルギーの世界とはそういうものである。

施術の時、相手の体に触れるのであるが、その際に、身体を通じて、相手の身体の情報が入ってくる。施術がうまくできない人間は、その情報をキャッチすることに疎いのであって、なぜ疎くなるかというと、まだ「自分と相手が個体として違う」と思っているからです。

人間というのは、共感できないものは、理解できないようにできている。そういう風に、他人と自分を「分けて」考えている施術家は、正確に相手の体の情報をキャッチすることができない。自ら理解を拒否しているようなものである。

クライアントさんを「その一回でできるだけ良くしなければならない」と、真剣に考えていれば、クライアントの身体に触れた時に、それがまるで自分の身体に触れるかのごとくに理解できなければならない。もはや他人を他人と思う脳の固定概念があってはならないのである。

私は施術中に深く精神を集中させるほど、相手との境界線がなくなっていく。それほど身体の奥深くまで診るのであるから、身体の輪郭に捉われていては奥が見えない、境界線に捉われていてはエネルギーなど探れないのである。

とは言え、ここからが大事なことであって、他人と自分の境界線が強ければ身体を深く診ることはできないが、そうは言っても「他人様の身体である」ことを忘れてはいけない。つまり、相手の身体にドカドカと入っていくからには、そこには、それに応じた「他人の身体への尊重」がなければならない。ここのバランスが非常に大切なのである。

初歩的な施術家というのは、他人の身体に深々と入っていくことができないものである。キャリアの長い施術家でも、まだまだ深さが足りないために痛みの根っこが取れないことがよくある。だから、他人の身体に余計な遠慮をせずに深く意識を巡らせることは大切なのである。しかし、逆にそれができる者になると、今度は相手の身体への尊重が足りない。

相手の身体に深々と入っていけなければ、それは普通のどこにでもいる施術家となるし、かといってドカドカと入っていって尊重がなければ、それは非常識である。どちらの者にも足りないものは「機微への配慮」であるし、そして、「相手」という存在を知らなすぎるのである。

施術家に限ったことではなく、仮にあなたから見て「相手」というものは、どういう存在であるだろうかと思う。

私は、「私は、あなたである」と思う。

なんだかそれらしい言葉に聞こえるから言うのではなくて、この一言を口にするには、どれだけの理路がなければ正確にこの一言を表現できないかということも考えなくてはならない。

簡単に、どういうことかというと・・・

様々な地域で講演会を何度も何度も行ってくると、そこに参加する方達、全員の視点が「全く違う」ことに気づく。このブログにおいてもそうで、同じ文章を読んでいても、どこをどういう意味に捉えて読むかは、全員違う。だから、私は私を正確にあなたに伝えることは「不可能」である。

また、講演会に行くと、前からは全員の顔が見える。そして、私は単なる講演家ではなくて、施術家であり「境界線を感じていない」「他人を他人と思っていない」人間である。つまり、全員の顔を見て、すべての人達に(いわゆる)同期をして、全ての人の視点を通して壇上にいる私を眺めて話している。つまり、私はあなたを通じて話しているのである。それは不思議なことではなくて、「そういうことは、他人を尊重していたら、自動的に起こるでしょう」というのが私のリアルな感覚として有る。

だから、「相手」という存在に対して「私はあなたである」と思う。

では「あなたは私である」のか?それは、あなたが「相手」というものを、どのように思っているかによるので、必ずしも言えない。もし、あなたが他人を「他人として力強く分別」していたら、もちろん、そういうことにはならない。


さて、分かったような分からないような話かもしれないが、人生、分からないよりも分かった方がいい。一生を生きて、よく分からないまま死ぬよりも分かった方がいいと、私は何となく、お年寄り達を診てお別れしてきた経験からそう思う。

エネルギーという話を聞いて、知的好奇心を掻き立てられれば幸いに思う。

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