たまには、私からはどのように世界が見えているのかを、書いておこうと思います。

それは、やはり普通ではないですよ。ただ、よく生徒に言いますが、普通ではないことをやるならば、よほど普通のことを知っていなければならない。スポーツでもそうですが、基礎が分かっていない人間は、自分勝手に振舞っているだけで「超越」ということができない。ただ単純に型破りな人間であれば、今度は、他人に教えることができません。

だから人間というのは、最初は凡人であっていい。親が普通でも、ごく普通の家庭に育ってもいい。何も才能がなくてもいい。私はそもそもそこから始まっているから、だからどうやって、どの道をたどって、こういう見地まで来たか自分で良く分かっている。おそらく昔から他人と何か違う人間は、「何が他人と違うのか」をいまだに理解していない。

エネルギーということをお伝えしていると、特異な才能を持っている人や、一風変わった人達も私のところへ訪れる。しかし、そういう人達を見ていると、「ああ、なるほど、この人は、こういう角度では物が見えないらしい」と気づかされることがよくあります。この人は全体のうちの「ココ」を見ている、あの人からみたら、この出来事はこういう風に映っている・・・ということが手に取るようにわかる。それは、私が普通に様々な人の目線に立って働いてきたからよく分かる。

例え、私がエネルギーという見地を持っていて、人よりも何かがわかるとしても、仕事で対応するクライアントさんというのは、そういう人達ではなく、様々な家庭環境や、立場や年齢や所属する社会団体というものがある。主婦の方や、おばあちゃんや、学生ということもある。当然、それらの方達の「目線に立って」対応しているわけで、それが何万回も施術をしてきたとなると、様々な視点を知ることになる。

私がエネルギーについて分かるかどうかなど、来院したクライアントさんにすればどうでもいい。ただ、他より結果が出るとか、そういうメリットがあるから私のところに来るわけで、それがエネルギーだろうとなんだっていい、それは私がクライアントさんだったらそう思うのだから、それで良いと思う。だから、特異なものを披露することはあっても、押しつけることはしたことがない。私の話に興味を持つ人がいて、学びたい人には教える。しかし、自己顕示のために教えるのではないのだから、相手の目線に合わせて教える。相手が自分の目線を高めようと、一歩踏み込んだ質問をしてくればそれについて語る。相手がこれ以上、聞きたいことがないというなら、それ以上のことを知っていても語ることはない。その体裁は、昔から変わらない。

そのようなわけで、私から世界がどのように見えているか結論につなげていくと「境界線がない世界」に見えている。もちろん普通の日本人の一般的社会観も持ち合わせているので、二つの世界がオーバーラップして見えていることになる。

例えば、施術をしているとする。私はその時、相手の体を「他人とは思っていない」。エネルギーの世界とはそういうものである。

施術の時、相手の体に触れるのであるが、その際に、身体を通じて、相手の身体の情報が入ってくる。施術がうまくできない人間は、その情報をキャッチすることに疎いのであって、なぜ疎くなるかというと、まだ「自分と相手が個体として違う」と思っているからです。

人間というのは、共感できないものは、理解できないようにできている。そういう風に、他人と自分を「分けて」考えている施術家は、正確に相手の体の情報をキャッチすることができない。自ら理解を拒否しているようなものである。

クライアントさんを「その一回でできるだけ良くしなければならない」と、真剣に考えていれば、クライアントの身体に触れた時に、それがまるで自分の身体に触れるかのごとくに理解できなければならない。もはや他人を他人と思う脳の固定概念があってはならないのである。

私は施術中に深く精神を集中させるほど、相手との境界線がなくなっていく。それほど身体の奥深くまで診るのであるから、身体の輪郭に捉われていては奥が見えない、境界線に捉われていてはエネルギーなど探れないのである。

とは言え、ここからが大事なことであって、他人と自分の境界線が強ければ身体を深く診ることはできないが、そうは言っても「他人様の身体である」ことを忘れてはいけない。つまり、相手の身体にドカドカと入っていくからには、そこには、それに応じた「他人の身体への尊重」がなければならない。ここのバランスが非常に大切なのである。

初歩的な施術家というのは、他人の身体に深々と入っていくことができないものである。キャリアの長い施術家でも、まだまだ深さが足りないために痛みの根っこが取れないことがよくある。だから、他人の身体に余計な遠慮をせずに深く意識を巡らせることは大切なのである。しかし、逆にそれができる者になると、今度は相手の身体への尊重が足りない。

相手の身体に深々と入っていけなければ、それは普通のどこにでもいる施術家となるし、かといってドカドカと入っていって尊重がなければ、それは非常識である。どちらの者にも足りないものは「機微への配慮」であるし、そして、「相手」という存在を知らなすぎるのである。

施術家に限ったことではなく、仮にあなたから見て「相手」というものは、どういう存在であるだろうかと思う。

私は、「私は、あなたである」と思う。

なんだかそれらしい言葉に聞こえるから言うのではなくて、この一言を口にするには、どれだけの理路がなければ正確にこの一言を表現できないかということも考えなくてはならない。

簡単に、どういうことかというと・・・

様々な地域で講演会を何度も何度も行ってくると、そこに参加する方達、全員の視点が「全く違う」ことに気づく。このブログにおいてもそうで、同じ文章を読んでいても、どこをどういう意味に捉えて読むかは、全員違う。だから、私は私を正確にあなたに伝えることは「不可能」である。

また、講演会に行くと、前からは全員の顔が見える。そして、私は単なる講演家ではなくて、施術家であり「境界線を感じていない」「他人を他人と思っていない」人間である。つまり、全員の顔を見て、すべての人達に(いわゆる)同期をして、全ての人の視点を通して壇上にいる私を眺めて話している。つまり、私はあなたを通じて話しているのである。それは不思議なことではなくて、「そういうことは、他人を尊重していたら、自動的に起こるでしょう」というのが私のリアルな感覚として有る。

だから、「相手」という存在に対して「私はあなたである」と思う。

では「あなたは私である」のか?それは、あなたが「相手」というものを、どのように思っているかによるので、必ずしも言えない。もし、あなたが他人を「他人として力強く分別」していたら、もちろん、そういうことにはならない。


さて、分かったような分からないような話かもしれないが、人生、分からないよりも分かった方がいい。一生を生きて、よく分からないまま死ぬよりも分かった方がいいと、私は何となく、お年寄り達を診てお別れしてきた経験からそう思う。

エネルギーという話を聞いて、知的好奇心を掻き立てられれば幸いに思う。


エネルギーの施術をしているとたまに遭遇する現象がある。

身体のエネルギーというのは、診ているクライアントの身体の中に生じている「力の波」のことである。 人というのは、様々な「力加減」で自身の体を支えているものだが、その力加減やバランスの取り方は人によって異なる。

つまり、力のバランスが悪ければ、体はいびつな波形を示し、それらは体の歪みやコリとして現れる。また、力の波には形だけではなく、性質もある。どういうわけか、やたらと身体に力を入れてしまう人というのはいるもので、そういう人の身体のエネルギーには、ビリビリとまるで感電したような感触を覚えるものである。

さて、そのような話は一般論であるが、今日はエゴについての話である。

施術をしていると、エゴのエネルギーが強い人に遭遇する。

そういう人を施術していると、どのような感触があるのか記載しておくが、その人の身体を(良い方向に)変えようとしても、なかなか本人が自分の体を動かす主導権を手放そうとしない。つまり、相手の身体から滞った固いエネルギーを取り払おうとすると、それに抵抗するかのように、相手の中心にエネルギーがまたグイッと引っ張られてしまうのである。まるで本人の中に、大きなブラックホールのような引力が働いているかのようである。

さて、エゴとは何か?それは「私」を中心に思う力である。
あなたがそのように思っていることが、あなたの身体に現れるのである。

「私」というものを主張する。自己利益を尊重することから、エゴは自己主義と日本語訳される。それは一見、印象の悪いものと取れるが、印象が悪いからやめるべきとは言わない。しかし、「今まで人を診てきた経験上、エゴは自信を苦しめる」と言い切ることができる。エゴが強い人たちは、そのエゴによって苦しんでいたからである。そして、そのことに本人は気づくことができない。なぜなら、「私」を抜きにして自分を客観視することができないからである。

地球のエネルギーも、私たちの身体に流れるエネルギーも、最も大切なことは「循環する」ことである。エネルギーが滞ると、そこから生気が失われていく。

例えば、川上から水が流れてくるとする。その水を得たいのであれば、流れている川から水を汲めば、常に新鮮な水を手に入れることができる。

しかし、誰もがそのように自然調和をしている中で、ある人が「私のうちの近くに川が流れてくれれば良い」と言い出し、その川から水を引く、そして今度は、「自宅の貯水庫に、自然に水が溜まってくれたらなお良いわ」と考える。エゴというのは、こういうものである。

その結果、良かれと思って溜め込んだ水は鮮度が失われ、結局、使えないものとなる。川下に至る水も減り、その一人の人間のために、どこかで迷惑を被るものが出る。

しかし、問題はそこでは終わらない。先ほど述べたように、エゴの強い人は、自分のエゴに気付かない(気付かないことにしている)のである。つまり、水の一件で反省するのかというと、エゴの人はこう考える「今回は、たまたま上手くいかなかっただけ」。

さらに酷くなると、周囲の人が自分に迷惑を掛けられている様が、まるで「私を中心としたストーリーが展開されている」と錯覚する。ドタバタ劇の中心に自分がいるからである。

つまりエゴの人が欲しいのは成果ではなく、他人より少し自分が中心であるという振る舞いが許されることである。

「エゴはやめたほうが良い」と言える理由は2つある。
 
まず1つは、そんなことを繰り返しても、全く成果が上がらないことである。先ほどの川の水と同様に、手元に残るのは腐った水だけである。

もう1つは、自然法則的に無理だからである。

世の中の全てのエネルギーは、循環するようにできていて、それは地球の回転や太陽系の回転を止めない限り続くであろうと言える。体の細胞でさえ、月日が過ぎれば全て入れ替わり、時間も常に流れている。その中で「私」が中心の世界を維持しようとしても、そんなことは無理なのである。

では、この世界の中心を「私」ではなく、何に定めれば良いのか?そういうことを、私達はよくよく考えなければならない。

一体、世の中の何が「本質」であるのか。何が「本物」であるのか。そういうことに思いを走らせるようなことを、真理の追求と言うのである。エゴが強ければ、そういう疑問を抱くことさえできない。

エゴを脱するにはどうすればいいのだろうか?それは、自分で気づくしかない。私自身、20代の頃は、エゴの強い人間であったと思う。「自分の力でなんとかしなければ」と思い、時には「自分の力がどこまで通用するか」などと考えていた。しかし、人の体を診るに当たって「自分の力では、到底どうすることもできないもの」があることを知る。努力に努力を重ねた結果、「自分の手持ちの知識や技術が、全くどれも通用しない」という状態に出くわすのである。今思えば「幸いにも」出くわしたと言える。

例えば、あなたがいま30歳だとして、いままで積み重ねてきた学歴や実績や知識や資格などによって、自分の生活や家庭や給料や立場が成り立っているとする。つまり、あなたのいまが成立するには、あなたの足場には、それが成立するだけの「理由」が積み立てられている。

しかし、あなたが成立する理由は、それが積み立てられている「場」でしか通用しない。つまり、あなたは、それらが成立する代わりに、その「場」に拘束されることになる。つまり、私の世界の中心が私の積み上げたもの達であると、それが自分の世界を狭くすることは往々にしてある。

とはいえ、自身にとって気持ちの良い場所かもしれない。しかし、ある日のこと、何かをきっかけに「他の場」へ足を運ぶことになったとする。するとそこは他の場であるから、あなたが自分の場所で積み上げたものも、あなた自身も何も通用しない。そういった場に遭遇した時に、それに拒否感を覚えず、せめてそういう場があることを認められるくらいに自身のエゴを無くしておいた方が良い。

私は、自分が中心である世界が楽しい世界であるとは、全くもって思えないのである。


人生における「必然痛」というものがある。 

その痛みは怪我かもしれないし、病気かもしれないし、原因不明かもしれない。

身体を通じて、私たちは学びます。一生に一度も、怪我や病気をしない人間はいないんです。

人生の必然痛というものは、どういうものかと言うと「あなたが、その痛みの原因に気付かなければ、取れることのない痛み」であり「人生において、人間として成長しなければ取れない痛み」である。

あなたは痛みがあることを「おかしい」と思う。その痛みは、本来はあってはいけないものだと思う。しかし、身体は「正しく痛みを出している」のが本当で、痛みが出ている身体をおかしいと思うあなたの方が、何かおかしいのかもしれない。そのようにして、身体はあなたの思い込みと現実のギャップを埋めるための何かを伝えようとする。

施術をしていますと、この「人生の必然痛」というものを相談に来られる方がいる。施術家は、「これは必然痛であるな…」と、そういうことも見抜けなければいけない。その人が「思っている自分」と「本来の自分」がズレている時に、こういうものが生じやすくなる。また、自身の成長に努める人であれば、自分を一歩進めるためには「今までの調子」ではいけないわけであるから、調子がガクッと崩れることがある。その時に「普段の調子に戻そう」というのは愚の骨頂ということになる。重々、理解しなければいけない。

例えば症例としてよくあるのは、自分の内側に「実はズルい自分」とか「実は文句ばかり言っている自分」とか「他人に対して攻撃的な自分」とか、いわゆる「悪い側面」が居るとする。

そういうものがあるから、人間は成長していかなければならないのだから、それらがあること自体は成長段階としては仕方がないことである。

しかし、そういう自分を認めずに、ごまかしたり、そのために嘘をついたり、誰かのせいにしたり、人前でコロコロと態度の裏表を婉曲させていると、その行為が人生における過剰なストレスとなり、自身の身体や精神に痛みや苦しみを生じることが多々ある。

このような、自分の人間性により生じる痛みというのは、本人が「そういうことをしてはいけない」「それは、正直な自分ではない」「なんだか人として後ろ暗いことである」といったことに気付かなければ取れない。それを続ける限り「自分の人間性が生み出している痛み」は止むことはない。

クライアントの相談に乗っていて、そのような必然痛であることに気づいた時、どのように対応すべきであるか?

知っておかねばならないことは「その人の代わりになってあげることなどできない」ということで、クライアント自身が人生の課題をクリアしなければ意味がなく、解決もしない。

そこでせめて出来ることは、そういう因果によって痛みが生じているというエネルギー循環のメカニズムを教えることだが、そういう指摘こそ「本人が最も指摘されたくないこと」であることがよくある。そのため、様々な方法で話をごまかそうとしたり、酷い場合には、そういう耳が痛い指摘をする人の悪口などを言って逃げて行ってしまったりする。その結果、その後も、その苦しみは終わらないという事例が殆どである。

指摘されると最も響くのは、その人の人間性の中にあるしこりであるから、その人にすれば非常に効くツボになっている。指摘されたことを認めてしまえば、後で考えれば「なぜあの時、あんなに指摘されることが嫌に思えたのだろうか?」と不思議に思えるような過ぎたことになるのだが、それは、その人が、人生においての自身の人間性を向上させなければクリアのできないことである。

よって、その人の人生自体がその人に仕向ける必然痛というものがある。それを、治療家や施術家もそうであるが、多くの人は知っておいた方が良いと思える。

高いところから言っているわけではなく、私自身にも起こることであるから、真摯に受け止めていくことが最も着実に解決する道であり、そこからは真に大切な気づきが得られることは間違いない旨を申しているのである。

↑このページのトップヘ