2015年11月


例えば・・・

500円を寄付する場に居合わせたと考えます。

たまたまそういう場に立ってしまった。


そこで、寄付しようとして、お金を取りだしたら、

隣から不意に「別に寄付しなくてもいいよ」と、

誰かに言われるとします。


すると、

「あ、やっぱりどうしようかな。もったいないからやめようかな」 

と考えてしまったと・・・

さあ、この出来事を皆さんどう考えますか?


・・・


よく「成功しよう!」・・・と言う方がいますね。

一回くらい成功してみたいんだろうなぁと思うんですけど、

例えば、その成功はお金が沢山入ってくることだとします。


入ってきたお金は、今度は、使わなければいけません。


「貯めておけばいい」と皆さん思うと思うのですけど

それは、自分の人生に終わりが無いと思ってるようなもので、

 全てのものに「終わり」があるんですね。つまり無になります。


だから、お金の終わりというのは、「無くなる」ということです。


「お金を使う」というのは、一つの「苦」ですね。

だって、何かをしなければならないわけですから、

「何につかおうか」と悩まなければならない。

そういう悩みは、人生にとって「邪魔」とも言えるんです。


では、冒頭の話に戻ります。


500円を寄付する場に居合わせて、

すんなりお金を払っていたら、

「どれだけ楽だったでしょう」か。

すんなり「終わらせる」ことができました。


しかし、「悩んで」しまった場合、どれだけ苦であるか。

また違う終わらせ方を考えて、右往左往しなければなりません。
 
 


前回、話し切れない話について書いた。

その状況で、唯一、本当の話をできる場というのが

私が教える「人間のエネルギー講座」の場であり、

全力で話せる相手というのは、受講生だけである。


日頃の施術において、クライアントには必要な話をする。

それは授業ではないからだ。


・・・

ある種の師(マスター)というのは、

まず、何かの技術を極めなければならない。


そして、次に人に教えるわけだが、今度は、

「優れた弟子」に恵まれるかどうかという課題が生じる。
 

これは大きな課題である。

ある師は、「十年教えて、一人本物が育つかどうか」

という寛大な構えを持つ。


もしかすると、一生掛かっても、優れた弟子に

出会えないかもしれない。

そういう師も沢山いることと思う。

師は、優れた弟子が現れて、初めて師となるのかもしれない。


・・・

しかし、実は私の場合、とても幸運なことに、

早くも優れた本当の弟子が現れてしまった。
 

なんと有り難いことだろう。

私は、その優れた弟子が登場した時に、

その余りに素晴らしい出来事に、

言葉にすることも、眼が冴えて眠ることもできなかった。


それもその生徒は、全くの初心者だった。

それが、10年以上の施術経験者を驚かす施術を

やってのけるのである。


「いつか私を超える人が現れてくれれば・・・」と

私は、その課題を10年も20年も待ち焦がれることは

なかったのである。こんなことがあるだろうか。

・・・

ある師の書には、こう記されている。


それは、「一体、誰に学べば良いのか?」という問いだ。

人が師を求めるほど、偽の師が現れるという。


師は偉大であるが、どうして「偽の師」が現れるのか?

という下りであった。それはこう書いてある。


「どうして偽の師が現れるのだろうか

 それは、私達の責任だ。

 偽の弟子の市場が拡大しているので

 偽の師の市場も拡大するのだ」 


その通りだと思う。


師と弟子の関係は、優れた弟子によって

成立するのだと思う。
 


僕は、大して小説を読まない。

もちろん、「本の虫」と言われるほど、本は沢山読んできたが

殆どが実用書だった。


しかしながら、少しは小説も読んだことがある。


その、少しばかり目を通した著者たちの中で

最もエネルギーを感じた小説家は「スティーヴン・キング」だった。 

ホラーが特別好きというわけじゃない。

それに一冊一冊、丁寧に読んだわけじゃない。


ただ、あの「レンガのように分厚い本」に破壊力を思う。

実際、あの本でどつかれたら、頭がショーシャンクの空に

なりそうである。


表紙からしてトップスピードで走り出し、

それでも燃焼しきれないバイタリティに

「人間の底力」を感じるのである。

・・・

僕も、昔からよく「書きもの」をやっていた。


ただ、自慢ではなく、自分の客観的な特徴として述べると

僕は動きと変化の早い人間である。


そのため、過去、書いた物はすぐに「自分らしくなくなる」。

だから、昔のブログは、殆ど消してしまった。


しかし、僕が消した後に、あるクライアントさんが、

全て印刷して所持していることが分かり、その方が

わざわざ冊子にしてお届け下さったので、

消したはずのものが手元に戻ってきた。

(自分では読み返すことはないが・・・)


それとは別に、出版も製本もしていないが、

忘れない内に、「どのようにしてエネルギーを解読していった」か、

その数奇なデキゴトを記した原稿もある。


・・・・しかし、それらの原稿も、ブログもFBも、

僕が見ている景色の要所、要所を記しているに過ぎない。 


僕の日常は、エキサイティングでスリリングで、

いつも新しい出来事に溢れている。


新しいことを求めているわけじゃない。

新しいことが自然と起こるというのが本来の人生の

在り方であって、その軌道に乗っているだけなのだ。

・・・

一枚の絵が、一枚の絵に見える方もいるかもしれないが

僕は、一枚の絵に何重ものエネルギーの重なりを見る。

つまり、目に映る景色が、常に「幾重にも重なった協奏曲」であるから

そこから読みとれるものは、一体、「何テラバイト」の

情報量か分からない。
 

スティーヴン・キングほど、凶器に溢れた筆談能力があれば良いが

それが本職ではないから間に合わない。


口頭で話せばよいかと思われ、講演会やCDも出しているが

限られた時間では、語り切れない話があり、

非常にマニアックな角度で質問されなければ、

口にもしない話も多々あり、出力が追いつかないのである。

・・・

出会う人が、僕の引き出しのドコを開くかによって

その人の「曲者度合い」が分かるのである。


・・・


人間と言うのは、「納得していないこと」ほど

よくしゃべるものである。

私もエネルギーの研究過程では、よくしゃべっていた。


しかし、もうエネルギーの研究も終わり、

「謎」と思われているものの

「答え」に行きついてしまった。


つまり様々なことに納得してしまったのである。

結果、口数も少なくなってきた。

今後、益々そうかもしれない。


スティーヴン・キングが、どのように小説を書いているのかは

知る由もないが、彫師が木を削るように、一日中しゃべらずに

黙々と書ける日がくれば幸いである。


11月7日(土) 岐阜県 にて人体エネルギーの一般講習会

以降、15日まで予約が埋まっております。 

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