2015年12月

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不思議な体験ばかり続いた時期がある。

ある日、僕は宮古島に行ったのだ。そこからさらに海を渡って、とある島での出来事だった。

車道からキレイな川を見つけた。海に近い河口であった。その川を渡った向こうには、真っ白で美しいビーチと楽しそうに遊ぶ少数の人々がいた。

向う岸へ泳いで渡ろうと思い、車を止めた。人気のない場所である。しかし、後ろから全く同じ二台の車が僕の後を付いてきた。

僕がたまたま車を止めた河口に、彼等も車を止めた。その車からは、喪服を着た人達が降りて来た。梅雨明け直後の日差しの下で、黒い喪服は季節外れに思えたものだ。

僕は、大抵のことには動揺しない。「散骨かな・・・」とポツリと思ったが、気にしないことにした。さて、川の向こう岸の楽園に渡ろうと思い、泳ぎ出してみた。

幸いにも浅瀬の川だったのだ。しかし、5メートルほど泳いだ時、何やら異変に気づいたのである。川が急激に深い海となった。思ったより、風が強く、波が荒い。嫌な予感がして、急遽、引き返すことにした。

川の真ん中手前で振り返り、泳いで引き返そうしたがもう遅かった。流れが速く、どんどん流される。波の力に人間の漕ぐ手は、こんなにも適わないものかと思えた。

河口から流されていくその先には、誰もいない大海が広がっていた。海は美しいが荒い波が立っており、「海に出たらもう戻れない」と察した。

岸へ泳いでも進まないため、川に流されるままの遭難状態となった。

叫んで助けを呼ぼうと思ったが、近くに誰もいない川である。向う岸にいる人は、随分と遠い。「しまった」と思った。こういうミスで事故は起こる。このまま海に流されたら、誰にも気づかれずに死ぬのであろうと思えた。恐らく、過去を遡ればここで流された人もいたことだろう。

完全な四面楚歌である。助かる見込みは何もない。

どうしようも無い時がある。できることしかできないのであるから、とにかく進まなくても全力で泳ぐことにした。当然だが全く進まない。

横殴りの波に流されていく。しかし突然、海の手前に盛り上がったサンゴ礁が現れ僕はそれに引っかかった。

そこから這い上がり、サンゴ礁を辿って川岸へ戻れた。頭が真っ白で、しばらくの間、何も考えられなかった。前かがみで息を切らしながら、楽園と思われた対岸を見たが、もう誰もいなかった。

早くそこを離れたくなり、駐車した車に向かった。先ほど一緒に停車していた喪服の人達の車は既になく、もうこの場を後にしたようだ。

彼らは一体どこへいったのだろう。

そこから離れて、しばらく車で走った。すると、小さな滑走路が見えた。そこに用事は無かったが、僕はなんとなくただ車を走らせた。

滑走路沿いの直線を走りながら、ふとバックミラーで後ろを振り返ると先ほどいなくなっていた喪服の人達の車が後ろからついてくる。

僕はウィンカーを出し、車を左に寄せ、彼らが通り過ぎるのを待つことにした。先に出立した彼らは、いつから後ろを走っていたのだろう。

左に寄せた僕の車の横を、彼らは無言で通り過ぎて行った。

その先を望まない方がいいラインがあるのだろう。僕はもう、その島を後にした。


眺めていて、思うことですが・・・施術家、セラピスト、カウンセラーの人で、「この人は、(例えるなら)薬を作ろうとしているのか、クライアントを診ようとしているのか、どちらなのかな?」と思うことがあります。

これは例えですから、私達、施術家は薬を作るわけではありませんが、薬を作るというのは、「新しい療法や、新しいセッション体型を構築したり、今まで解けなかった人間の心理や物理構造を解剖して、論理体系を緻密に構築する」といった「研究」のことです。

簡単に言いますと、レシピを作るように、中身を作っていく作業。

こういう作業において、どうして中身を分析して構築しなければならないかと言うと、最終的には「周囲に説明しなければならない」から(再現性)が必要です。(レシピは皆に伝わる形でなければなりません)

代わって、クライアントを診るという仕事は、薬を作るのとは違います。

もちろん、そういった知識を知っていなければなりませんが、体系構築の「研究をする」のではなく、研究結果をどこからか学び、自分が得た知識を用い、持ち前の技術でできることをクライアントに行い、「結果に起こす」ことが仕事です。

少し話が逸れますが、「私はまだまだ知識が浅いので・・・」と遠慮して触れないなど以ってのほかで、そんなことを言っていたら「自分が年を重ねて、人生を熟知した年寄りになるまであなたは人を診ないつもりなのか?」ということになる。多かれ少なかれ、手持ちの駒を組み合わせて、挑まねばなりません。

さて、施術家、セラピスト、カウンセラーというのを眺めていて「この人、どっちがやりたいのかな?」と思う時があります。

多かれ少なかれ、どちらが得意なのか方向性は別れるはずです。

「私はクライアントを診るのが仕事だ」と思うなら、さっき言ったように、学んだ知識で全力で向かえばいい。う~ん・・・と悩むことがあったら、それは「知らない」ことなのだから、その情報をどこかで得るのか考えることです。

では「私は研究が仕事だ」と言うなら、答えが出るまで黙々と研究をしなくてはいけない。まだ答えに程遠い研究報告はいらないんです。分かるまで、黙ってコリコリと研究をする。

施術家、セラピスト、カウンセラーは、「自分は、どちらが仕事として向いているのか?」ということを一回は考えなければならないと思う。

しかし、こう眺めていますと、この「どっちが得意なのか?」 ということを考える以前に、「もしかして、線引きさえできていないのではないか?」と思えるわけです。

時折、「混乱しているのかな?」と首をかしげます。施術、セッションも中途半端。研究も中途半端。どっちも大成せずに、あーでもない、こーでもないと何か分かったような体裁で(研究者というのは、分からないことが看板であるのに)自分は研究者なのだという風に論じている。

クライアントを診ながら、並行して研究をするのは大変なことです。二足のわらじを履かなければならないわけですし、話はもう少し複雑です。

例えば、クライアントと向き合っていて分からないことがある。では、それを研究しようと思ったとします。それならば、しばらくの間、「クライアントを診る」という姿勢を壊さなければならないのが本当です。

どういうことかと言いますと、その間、クライアントを診るなというわけでは無くて、少なくとも「私は、まだ十分に診れません。分かりません」という姿勢でいなければ、研究なんてできないだろうと。(実際、できません)

そういう姿勢で臨めず、どこか「私は、分かってはいるんですけど」という体裁をしていたら、研究者ではないし、研究しても終わらない。これは、私はやってきたから分かる。

「私は、分からないことがある」・・・と言いながら、研究をして、その研究に見通しが立ったり、一通り終わったとする。それが起きて、初めて人に「説明する」ということができるようになる。(そういうことを経過していない人は、本来、講座などしてはいけない。「講座をする」ということが、どういうことなのか?どうして私は講座を開いても良いと言えるのか?それらを十分に吟味せねば講座を開いても、思うように成果が出ない)

そうしたら後は、研究の成果を存分に使って、一度、壊した「クライアントを診る」という体制をもう一度、取り戻すことができる。

そういう視点が見えているのか?もし本当に見えていないなら、この業界と言うのは、この先も暗礁に乗り上げることになります。 

「クライアントを診る」なら、その仕事の重心は、クライアントを診ている瞬間とその場の結果なのだから、そこにこだわればいい。「研究をする」なら、黙々と机上に向かうのが重心なのだからそこに最もこだわったらいい。両方できていて余裕があるのなら、次の仕事でも探せばいい。どちらもできていないなら、どっちに重心を置くのか決めよということです。

他の業種では、既にそういった区分け整理がなされているから、気づかずとも分業になっている。施術家、セラピスト、カウンセラーの業界は、そういうことが成されていないし、する人がいない。そういう風に区画整理がなされていない業界は、形として不安定です。

明文化する人も見当たらないため、ここに記しておくことにします。

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