今日から記事のカテゴリを分けました。(この投稿のカテゴリは「日記」)
以下、本ぺん。

先日、言葉として説明できるようになった「自分の特徴」というのがある。僕は、何かに答えを見出そうとするとき「これ以上、考えるのはやめておこう」というブレーキが利かない。

何かについて考えるとき、その答えに必要なものを、様々なところから拾い、手に負えないほどのマップを広げ、そこからさらに無駄なものを全て削いで、削いだものに念のためにまた何かを足して、さらにそこからまた削いで、答えが最後の一点に絞れるまでやる。

答えが出たらそれで良く、唯一しないことは、できた作品にニスを塗ったり飾り付けをしたりすることである。もし、それをやるならば、僕はもっと華やかに世に出ていることだろう。このブログだって、もっとカッコ良くデザインされているはずである。

さて、話は戻るが、よく「こう言う考え方もあるよね」という言い回しもがある。そういう結論は断じて認めない。これは仕事のせいである。「人の身体を診る」ということに、若くて神経質な僕は、誰よりも重責を感じ「究極の答え」を求めてきたのだ。勝手に何かを背負う性質がある。自分が折れたら、この国は終わる…と心の中で思ってるほど重症だ。

だから「これも良いし、あれも良いし」・・・と、良いと言われるものをとりあえず並べるような感覚がどうにもこうにも受け付けない。あれもこれも良いというのは、結局どうでも良いのである(たぶん)。

もちろん、興味のないものにはそんなことはしない。それに、そこまで興味のあることもそんなにはない。何かにレーザービームのように力を入れる分、やらないことは全くやらない。

時に、いわゆる天才脳の人と出会うことがある。僕は、誰にも理解されない天才タイプの人間の、その天才性を見抜くのは非常に得意である。その人達は、みんなどこか変わってる、と思うけど、「それ以上、考えるのをやめようよ」というのが欠落している点は、僕も少し変わってるのかもしれないと思う。

 さて、そんなレーザービームのような思考を通して皆さんに話しているということを、読者の皆さんは肝に銘じてほしい(←偉そう)そういう生意気な発言が、昔に比べて書きづらくなったと思う。最近は、随分と間隔をあけて更新しているが、20代の頃は、僕は毎日ブログを書いていた。僕が本気でブログを書いたらブログランキングの健康部門で1位になるほどだ。だから分かる。随分と言葉が息苦しい社会だと思う。

これは、日本の管理社会がうまく機能している証拠である。「村八分」という言葉があるように、日本の社会は昔から、相互管理の社会だと思う。村人は、村人同士を管理し合う。これはお上にすれば都合の良いものである。村から誰かが管理を抜けようとすると、同じ村人が捕まえて、「こいつが不貞野郎です」とお上に報告してくるのである。なんて良い子ちゃんなのだろう。その色合いが今また濃くなっている。これは日本が貧している証拠だろう。

それは単純にダサいんじゃないだろうか。
そういう風潮を見たときに「僕は、自分が思うことを言うようにしよう」と思える。

前置きが長くなったが、そのような脈絡を経て、最近、思っていることがいくつかある。
そのうちの一つが「自分にとって一番嬉しいことは何だろう?」である。

そりゃ嬉しいことはたくさんあるが、仕事で結果が出れば嬉しいとか、そういうアダルトな心ではなくて、自分の心を子供のころの自分に巻き戻して、子供の頃の自分でも、今の自分でも一貫して嬉しいと思えることは何だろうと考えた。

そしたらそれは「身近な誰かが夢を叶える」ことだった。少なくとも僕が知っている人が、夢を叶える姿を見るのは、それは本当に嬉しい。心から感動するとしたら、多分それしかないだろう。

つづく