2016年08月


私は東京の中目黒の在住です。
中目黒と言っても、代官山も徒歩5分、さらに5分も歩けば恵比寿です。そのように三方囲まれた場所に住み、経営をして6年目となりました。

さて、東京に来る前は何をしていたのかと言うと、この章を書くために、ブログに新たにプロフィールを追加記載しましたが、私は全国の治療院やサロンに向け、健康と美容のコンサルティングをし、かなり実績を上げておりました。もちろん、患者さんを抱えながらそういう仕事も並行して行っていたわけです。

前回のブログでも触れましたが、様々なビジネスセミナーにも出向き、沢山のお金を出費し、20代の頃の遊び代は、全て「知識の補充」に注ぎこまれました。それらの努力が実り、多数の年輩の治療院の先生方に、若い癖に一目置かれ、重宝頂ける立場となり、そしてクライアント達に惜しまれながら独立を叶えました。

その後、三重の田舎で、閑古鳥がなきそうな農業地帯の真ん中に整体院を作り、その店を大繁盛させるに至ります。当然です。なぜなら「大繁盛できる仕組みを全て知っていた」のですから。健康・美容業界でコンサルティングをしていたということは、治療だけでなく、ダイエット、脱毛、フェイシャル、化粧品やサプリ等も、様々な知識を網羅しているわけです。そうでなければ、全国の40代や50代の院長先生方が、 当時、26~27歳の私のコンサルティングに耳を傾けるわけがありません。「こいつの知識量と仕事量は半端じゃない」というくらい実力を提供しなければ、認められるわけないんです。

コンサルティングですから、 ビジネスのサポートがメインです。健康と美容の全ての広告を書き、集客を保証し、接客を教え、リピートの戦略を提供する。それら全てを一貫して行うわけです。

さて、そんなことを30店舗以上に毎日、毎日、提供していたわけですから自分の店舗一つくらい繁盛させるのはわけないんです。そのようなわけで、周囲の心配をよそに1年もすれば繁盛店となり軌道に乗っておりました。ただ、僕はそこで満足しなかったわけです。それで東京の中目黒に進出しました。すると何が分かったかと言うと、今まで全国で通じていたコンサルティングのテクニックが、「何一つ、使い物になりません」でした。

これは衝撃的なことでした。東京とは、そういう場所なんです。

中目黒に来て、1ヶ月の間に一体どれだけの店ができては、あっという間に無くなっていくか、僕はずっと目の当たりにしています。それは、東京のどこででもそうです。芸能人御用達と宣伝されているような店が潰れてなくなっていく、そういう所です。

どうしてそうなるのか?それは住めば分かる。

以前、沖縄に出張した時、私の施術料を見て、「東京は物価が高いですね。沖縄ではこの値段ではお客は来ませんよ」と言った人がいました。昨日のブログでお話した、よく分かっていないのに分かったつもりになっている事例がここにもあり、東京でも多くのお店が安売りです。実力がなければ、高くすることなどできないんです。

さて、全ての知識が使い物にならない中、唯一通用したのは「エネルギーという技」でした。それだけを携え、僕は、毎日、「待つ」ことにしました。「お客が来るテクニック」みたいなものが、皆さんは存在すると思われるかもしれませんが、本当の本当は、そんなものは無いんです。


では、まだ起きていない未来に対して働きかけられる手法は何かと言うと「まだ起きてないことを起こす力」に他なりません。その力を発揮するために必要なものは「根拠の無い確信力」しかありません。

一体、それは何でしょうか?

ソファに座り、待つ時間を過ごし、ウトウトといつの間にか眠りに落ち、夢見心地で目が覚めかけた時、ふと「あれ?この後、誰かが来る気がする」と根拠もないのにハッキリと確信したら誰かが来ます。つまり根拠の無い確信力とは「自分に働きかけている外からの力を繊細にキャッチする」ことです。

自分は自分の力で生きているのではなくて、「自分に向けられている力」をキャッチすることで生きているということに、本当に気づかねばなりません。

いまだからこそこうして言葉にできますが、2011年の暮れ、私はそれが感覚的にできたから今も東京にいることができています。そういうことは、エネルギーの理屈を知らなければとてもできないことでした。もちろん、その後も、そういう力を発揮し続けているから、毎日、新しいことが起こり続けています。あなたの人生は毎日が新鮮でしょうか?

根拠の無い核心力は、頭で考えたり、悩んだりしたら止まります。モヤモヤしていたら、その力は発揮できません。それはあなたが、まだ未熟である証拠です。早く終わらせて、それらを辞めなければいけない。

東京は、東京だからといて高飛車にしているわけではないんです。

人の出入りが激しいこの街は、既存の知識以外にも、そういう能力が求められる場所であり、その上さらに「明日にもそれができなければ、もう立ち去らなければならない」と厳しく早いタイムリミットがある所です。

遠くでこれを読んでいる方も、そういう話に刺激を受けながら、自分の内在しているエネルギーを今すぐ発揮して下さい。


私は、エネルギーのことばかり言っているように見えますが、実は色んな仕事に関わっている。その全貌はここでは置いておくとして、エネルギーの理解を推奨するのは「時代とともに変動する知識を手にするよりも、普遍の知識を学んでいた方が一生使えますよ」という教えなわけです。

小手先のテクニックではなくて、そういう本質的なアドバイスを、あなたもキャッチされているでしょうか?

世の中に、ある種の法則があることは誰もが感じているかもしれません。その源流である見えないエネルギーの流れの論理を理解してから「目に見える自分のやりたいこと」に羽を広げた方が失敗しなくて済みますよということです。

それらは僕の経験則で、僕は、新卒社会人の頃からとにかく仕事ばかりし、様々なビジネスセミナーや教材にも手を出したが、その殆どは時代と共に使えなくなったり、ビジネスをする場所が変わればまた話が違うものとなった。

そういう失敗を「みんなはしなくていいと思う」というのが「経験者は語る」というものであって、私が未だに日々、東京で革新的なものに触れ続けるのは、そう言った経験的遺産を後世に残すために他ならない。それが年長者として当然の役割です。

さて皆さんは、「明日会社を辞める」とか、「新しくお店をオープンする」とか、そういう出来事があるとドキドキされるかもしれません。

明日はどうなるか分からないような一世一代の跳躍をされると、その度に、人生における大きなドラマに思えることでしょう。ただ、僕はその一世一代の跳躍を、遠慮がちに言っても6回はやっている。そんなことを競って言うわけではなく「それくらい跳躍しても、案外、生きてるぞ」という人間のタフさを小耳に挟んでおいて良いと思う。

それでは、私がスーパーマンのように持ち前の手腕や、頭の良さや、人の良さでそれらの跳躍をスムーズに乗り越えてきたかというと、考えてみたらそうではない。一生に一度の挫折というもの(もう自分の心がポッキリ折れて、二度と立ち上がれないような症状)には、のん気に笑いながら数えても3回はなったことがある。

そうやって、のん気に笑えるのは、面白いことに挫折をしたとしても、そこで話は終わらないということである。挫折して舞台を降りたら(辞めたら)そこで話は終わる。しかし「挫折したなぁ〜」って言いながら、そのまま挫折した状況を過ごしていたら、次の展開が始まるのである。つまり、失敗では終わらない。

ここには2つのポイントがあって、挫折するならしっかりと一度は「折れる」ことである。そういう瀬戸際で折れないように踏ん張る人がいるが、私の知る限りそういう人は「次のステージに進めない」。

僕は、そういう経験があるから「折れる」ことの大切さを知っている。でも、例えば周囲で「もう少しで折れそうだ」と愚痴ってるやつが居て、なら親切心で折ってやろうかとすると、大抵ダッシュで逃げられる。「なんだ、まだ走る力が残ってるじゃねーか」と思う。

そう、折れたら終わると思ってるから、その前に他人に甘えて、折れないように何かを補充する。人間のその心理が、すべての「早合点」の根底にある。

この話は、失敗の根底にあるのは「早合点」なんですよ・・・ということだが、早合点の根底を先に語ることになりました。


早合点というのは「よく聞いたり確かめたりしないうちに、もう分かった気になる」ことです。多くの人は、この早合点をライフワークの一環として行なっています。しかし、もう一度、念を押して言っておきますが「早合点」はあらゆる失敗の元となります。

現代人の弱点は、結論を急ぐという点です。

まだ結論に至っていない生半可な回答を、それを結論だとして無理やり提出し続け、その努力の結果、どれも虚しく実らないということになる。

多くの人は「自分はこれ以上は考えない」というボーダーラインを決めています。そのボーダーラインは、案外、よく見える。

対話をしていても、その人の「これ以上は考えない」というボーダーラインを越える話を持ちかけると、白々しく席を立ち居なくなったり、知らんぷりをします。皆さんの周りにも、そういう人はいるはずです。

その「これ以上は考えない」ボーダーラインというのは、その人が「早合点して決めた境界線」なんです。その人は、そこを「結論」としたわけです。だからそれ以上、先の結論には進めない。それが大きな失敗なんです。なぜなら、そういう人がその後、大発展的な人生を歩むとは到底考えられない。なぜなら全ての上昇は、勢いのある流れの先にしか生まれないからです。

さて、最後に話を手前に戻しますが、人間は、よく聞いたり確かめたりしないうちから人生において折れたり転んだりすることが恐いと思っていて、そうならないように身を守るつもりで、よく聞いたり確かめたりしないうちに結論を急ぎ、そして失敗するという、とんでもないロジックに嵌っていることに気づいてますか?というお話でした。

人の話を素直に聞くという基本を、もう1回やり直した方が良いのではないかということですね。

人の話が懐疑的に聞こえるのは、それが疑わしい話なのか、本当の話なのか、本質を見極める力があなたにないからです。早合点して決めた境界線の中にいるうちは、そういう力を伸ばすことができないわけです。それで一生を生きた結果、人生についてどれだけ理解できるかは不明です。


今月、8月26日(金)から大分県大分市にて人間のエネルギー講座、第3期生がスタート。月に1回で計6回の開催となります(その後の日程は生徒と講師で調整して決定)。

受け付けに当たって、今日、主催者にこんなことを伝えた。

「エネルギーの世界に足を踏みれ入れるタイミングというものがあります。僕はエネルギーの世界に足を踏み入れるタイミングが巡ってきたら、ラッキーなことだと思う。一生巡って来ない人もいるわけですから。

で、足を踏み入れる時は、金額だとか、講座の内容に関する細かい質問とか、その人の「脳」(物質)はごちゃごちゃ言うかもしれませんが、その人の「エネルギー」はその人をエネルギーの世界に連れて行きたいはずなんです。

だから、最終的にその人のエネルギーがその人の背中をポンと押せばエネルギーの講座の扉は開くんです。裏でそういう力が働いてるんです。僕は、講座を開くときは、そういう力の働きを眺めて見守っています

エネルギーの講座は、かれこれもう50人以上が卒業していますが、エネルギーのことを分かっていて学びに来る人はいないですね。みんな「よく分からない」から学びに来られる。講座というのは「全く分からないこと」こそ、教えるにも教わるにも価値があり、得るものは大きい。

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人間のエネルギー講座について


たまには、私からはどのように世界が見えているのかを、書いておこうと思います。

それは、やはり普通ではないですよ。ただ、よく生徒に言いますが、普通ではないことをやるならば、よほど普通のことを知っていなければならない。スポーツでもそうですが、基礎が分かっていない人間は、自分勝手に振舞っているだけで「超越」ということができない。ただ単純に型破りな人間であれば、今度は、他人に教えることができません。

だから人間というのは、最初は凡人であっていい。親が普通でも、ごく普通の家庭に育ってもいい。何も才能がなくてもいい。私はそもそもそこから始まっているから、だからどうやって、どの道をたどって、こういう見地まで来たか自分で良く分かっている。おそらく昔から他人と何か違う人間は、「何が他人と違うのか」をいまだに理解していない。

エネルギーということをお伝えしていると、特異な才能を持っている人や、一風変わった人達も私のところへ訪れる。しかし、そういう人達を見ていると、「ああ、なるほど、この人は、こういう角度では物が見えないらしい」と気づかされることがよくあります。この人は全体のうちの「ココ」を見ている、あの人からみたら、この出来事はこういう風に映っている・・・ということが手に取るようにわかる。それは、私が普通に様々な人の目線に立って働いてきたからよく分かる。

例え、私がエネルギーという見地を持っていて、人よりも何かがわかるとしても、仕事で対応するクライアントさんというのは、そういう人達ではなく、様々な家庭環境や、立場や年齢や所属する社会団体というものがある。主婦の方や、おばあちゃんや、学生ということもある。当然、それらの方達の「目線に立って」対応しているわけで、それが何万回も施術をしてきたとなると、様々な視点を知ることになる。

私がエネルギーについて分かるかどうかなど、来院したクライアントさんにすればどうでもいい。ただ、他より結果が出るとか、そういうメリットがあるから私のところに来るわけで、それがエネルギーだろうとなんだっていい、それは私がクライアントさんだったらそう思うのだから、それで良いと思う。だから、特異なものを披露することはあっても、押しつけることはしたことがない。私の話に興味を持つ人がいて、学びたい人には教える。しかし、自己顕示のために教えるのではないのだから、相手の目線に合わせて教える。相手が自分の目線を高めようと、一歩踏み込んだ質問をしてくればそれについて語る。相手がこれ以上、聞きたいことがないというなら、それ以上のことを知っていても語ることはない。その体裁は、昔から変わらない。

そのようなわけで、私から世界がどのように見えているか結論につなげていくと「境界線がない世界」に見えている。もちろん普通の日本人の一般的社会観も持ち合わせているので、二つの世界がオーバーラップして見えていることになる。

例えば、施術をしているとする。私はその時、相手の体を「他人とは思っていない」。エネルギーの世界とはそういうものである。

施術の時、相手の体に触れるのであるが、その際に、身体を通じて、相手の身体の情報が入ってくる。施術がうまくできない人間は、その情報をキャッチすることに疎いのであって、なぜ疎くなるかというと、まだ「自分と相手が個体として違う」と思っているからです。

人間というのは、共感できないものは、理解できないようにできている。そういう風に、他人と自分を「分けて」考えている施術家は、正確に相手の体の情報をキャッチすることができない。自ら理解を拒否しているようなものである。

クライアントさんを「その一回でできるだけ良くしなければならない」と、真剣に考えていれば、クライアントの身体に触れた時に、それがまるで自分の身体に触れるかのごとくに理解できなければならない。もはや他人を他人と思う脳の固定概念があってはならないのである。

私は施術中に深く精神を集中させるほど、相手との境界線がなくなっていく。それほど身体の奥深くまで診るのであるから、身体の輪郭に捉われていては奥が見えない、境界線に捉われていてはエネルギーなど探れないのである。

とは言え、ここからが大事なことであって、他人と自分の境界線が強ければ身体を深く診ることはできないが、そうは言っても「他人様の身体である」ことを忘れてはいけない。つまり、相手の身体にドカドカと入っていくからには、そこには、それに応じた「他人の身体への尊重」がなければならない。ここのバランスが非常に大切なのである。

初歩的な施術家というのは、他人の身体に深々と入っていくことができないものである。キャリアの長い施術家でも、まだまだ深さが足りないために痛みの根っこが取れないことがよくある。だから、他人の身体に余計な遠慮をせずに深く意識を巡らせることは大切なのである。しかし、逆にそれができる者になると、今度は相手の身体への尊重が足りない。

相手の身体に深々と入っていけなければ、それは普通のどこにでもいる施術家となるし、かといってドカドカと入っていって尊重がなければ、それは非常識である。どちらの者にも足りないものは「機微への配慮」であるし、そして、「相手」という存在を知らなすぎるのである。

施術家に限ったことではなく、仮にあなたから見て「相手」というものは、どういう存在であるだろうかと思う。

私は、「私は、あなたである」と思う。

なんだかそれらしい言葉に聞こえるから言うのではなくて、この一言を口にするには、どれだけの理路がなければ正確にこの一言を表現できないかということも考えなくてはならない。

簡単に、どういうことかというと・・・

様々な地域で講演会を何度も何度も行ってくると、そこに参加する方達、全員の視点が「全く違う」ことに気づく。このブログにおいてもそうで、同じ文章を読んでいても、どこをどういう意味に捉えて読むかは、全員違う。だから、私は私を正確にあなたに伝えることは「不可能」である。

また、講演会に行くと、前からは全員の顔が見える。そして、私は単なる講演家ではなくて、施術家であり「境界線を感じていない」「他人を他人と思っていない」人間である。つまり、全員の顔を見て、すべての人達に(いわゆる)同期をして、全ての人の視点を通して壇上にいる私を眺めて話している。つまり、私はあなたを通じて話しているのである。それは不思議なことではなくて、「そういうことは、他人を尊重していたら、自動的に起こるでしょう」というのが私のリアルな感覚として有る。

だから、「相手」という存在に対して「私はあなたである」と思う。

では「あなたは私である」のか?それは、あなたが「相手」というものを、どのように思っているかによるので、必ずしも言えない。もし、あなたが他人を「他人として力強く分別」していたら、もちろん、そういうことにはならない。


さて、分かったような分からないような話かもしれないが、人生、分からないよりも分かった方がいい。一生を生きて、よく分からないまま死ぬよりも分かった方がいいと、私は何となく、お年寄り達を診てお別れしてきた経験からそう思う。

エネルギーという話を聞いて、知的好奇心を掻き立てられれば幸いに思う。


エネルギーの施術をしているとたまに遭遇する現象がある。

身体のエネルギーというのは、診ているクライアントの身体の中に生じている「力の波」のことである。 人というのは、様々な「力加減」で自身の体を支えているものだが、その力加減やバランスの取り方は人によって異なる。

つまり、力のバランスが悪ければ、体はいびつな波形を示し、それらは体の歪みやコリとして現れる。また、力の波には形だけではなく、性質もある。どういうわけか、やたらと身体に力を入れてしまう人というのはいるもので、そういう人の身体のエネルギーには、ビリビリとまるで感電したような感触を覚えるものである。

さて、そのような話は一般論であるが、今日はエゴについての話である。

施術をしていると、エゴのエネルギーが強い人に遭遇する。

そういう人を施術していると、どのような感触があるのか記載しておくが、その人の身体を(良い方向に)変えようとしても、なかなか本人が自分の体を動かす主導権を手放そうとしない。つまり、相手の身体から滞った固いエネルギーを取り払おうとすると、それに抵抗するかのように、相手の中心にエネルギーがまたグイッと引っ張られてしまうのである。まるで本人の中に、大きなブラックホールのような引力が働いているかのようである。

さて、エゴとは何か?それは「私」を中心に思う力である。
あなたがそのように思っていることが、あなたの身体に現れるのである。

「私」というものを主張する。自己利益を尊重することから、エゴは自己主義と日本語訳される。それは一見、印象の悪いものと取れるが、印象が悪いからやめるべきとは言わない。しかし、「今まで人を診てきた経験上、エゴは自信を苦しめる」と言い切ることができる。エゴが強い人たちは、そのエゴによって苦しんでいたからである。そして、そのことに本人は気づくことができない。なぜなら、「私」を抜きにして自分を客観視することができないからである。

地球のエネルギーも、私たちの身体に流れるエネルギーも、最も大切なことは「循環する」ことである。エネルギーが滞ると、そこから生気が失われていく。

例えば、川上から水が流れてくるとする。その水を得たいのであれば、流れている川から水を汲めば、常に新鮮な水を手に入れることができる。

しかし、誰もがそのように自然調和をしている中で、ある人が「私のうちの近くに川が流れてくれれば良い」と言い出し、その川から水を引く、そして今度は、「自宅の貯水庫に、自然に水が溜まってくれたらなお良いわ」と考える。エゴというのは、こういうものである。

その結果、良かれと思って溜め込んだ水は鮮度が失われ、結局、使えないものとなる。川下に至る水も減り、その一人の人間のために、どこかで迷惑を被るものが出る。

しかし、問題はそこでは終わらない。先ほど述べたように、エゴの強い人は、自分のエゴに気付かない(気付かないことにしている)のである。つまり、水の一件で反省するのかというと、エゴの人はこう考える「今回は、たまたま上手くいかなかっただけ」。

さらに酷くなると、周囲の人が自分に迷惑を掛けられている様が、まるで「私を中心としたストーリーが展開されている」と錯覚する。ドタバタ劇の中心に自分がいるからである。

つまりエゴの人が欲しいのは成果ではなく、他人より少し自分が中心であるという振る舞いが許されることである。

「エゴはやめたほうが良い」と言える理由は2つある。
 
まず1つは、そんなことを繰り返しても、全く成果が上がらないことである。先ほどの川の水と同様に、手元に残るのは腐った水だけである。

もう1つは、自然法則的に無理だからである。

世の中の全てのエネルギーは、循環するようにできていて、それは地球の回転や太陽系の回転を止めない限り続くであろうと言える。体の細胞でさえ、月日が過ぎれば全て入れ替わり、時間も常に流れている。その中で「私」が中心の世界を維持しようとしても、そんなことは無理なのである。

では、この世界の中心を「私」ではなく、何に定めれば良いのか?そういうことを、私達はよくよく考えなければならない。

一体、世の中の何が「本質」であるのか。何が「本物」であるのか。そういうことに思いを走らせるようなことを、真理の追求と言うのである。エゴが強ければ、そういう疑問を抱くことさえできない。

エゴを脱するにはどうすればいいのだろうか?それは、自分で気づくしかない。私自身、20代の頃は、エゴの強い人間であったと思う。「自分の力でなんとかしなければ」と思い、時には「自分の力がどこまで通用するか」などと考えていた。しかし、人の体を診るに当たって「自分の力では、到底どうすることもできないもの」があることを知る。努力に努力を重ねた結果、「自分の手持ちの知識や技術が、全くどれも通用しない」という状態に出くわすのである。今思えば「幸いにも」出くわしたと言える。

例えば、あなたがいま30歳だとして、いままで積み重ねてきた学歴や実績や知識や資格などによって、自分の生活や家庭や給料や立場が成り立っているとする。つまり、あなたのいまが成立するには、あなたの足場には、それが成立するだけの「理由」が積み立てられている。

しかし、あなたが成立する理由は、それが積み立てられている「場」でしか通用しない。つまり、あなたは、それらが成立する代わりに、その「場」に拘束されることになる。つまり、私の世界の中心が私の積み上げたもの達であると、それが自分の世界を狭くすることは往々にしてある。

とはいえ、自身にとって気持ちの良い場所かもしれない。しかし、ある日のこと、何かをきっかけに「他の場」へ足を運ぶことになったとする。するとそこは他の場であるから、あなたが自分の場所で積み上げたものも、あなた自身も何も通用しない。そういった場に遭遇した時に、それに拒否感を覚えず、せめてそういう場があることを認められるくらいに自身のエゴを無くしておいた方が良い。

私は、自分が中心である世界が楽しい世界であるとは、全くもって思えないのである。

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