エネルギーの施術をしているとたまに遭遇する現象がある。

身体のエネルギーというのは、診ているクライアントの身体の中に生じている「力の波」のことである。 人というのは、様々な「力加減」で自身の体を支えているものだが、その力加減やバランスの取り方は人によって異なる。

つまり、力のバランスが悪ければ、体はいびつな波形を示し、それらは体の歪みやコリとして現れる。また、力の波には形だけではなく、性質もある。どういうわけか、やたらと身体に力を入れてしまう人というのはいるもので、そういう人の身体のエネルギーには、ビリビリとまるで感電したような感触を覚えるものである。

さて、そのような話は一般論であるが、今日はエゴについての話である。

施術をしていると、エゴのエネルギーが強い人に遭遇する。

そういう人を施術していると、どのような感触があるのか記載しておくが、その人の身体を(良い方向に)変えようとしても、なかなか本人が自分の体を動かす主導権を手放そうとしない。つまり、相手の身体から滞った固いエネルギーを取り払おうとすると、それに抵抗するかのように、相手の中心にエネルギーがまたグイッと引っ張られてしまうのである。まるで本人の中に、大きなブラックホールのような引力が働いているかのようである。

さて、エゴとは何か?それは「私」を中心に思う力である。
あなたがそのように思っていることが、あなたの身体に現れるのである。

「私」というものを主張する。自己利益を尊重することから、エゴは自己主義と日本語訳される。それは一見、印象の悪いものと取れるが、印象が悪いからやめるべきとは言わない。しかし、「今まで人を診てきた経験上、エゴは自信を苦しめる」と言い切ることができる。エゴが強い人たちは、そのエゴによって苦しんでいたからである。そして、そのことに本人は気づくことができない。なぜなら、「私」を抜きにして自分を客観視することができないからである。

地球のエネルギーも、私たちの身体に流れるエネルギーも、最も大切なことは「循環する」ことである。エネルギーが滞ると、そこから生気が失われていく。

例えば、川上から水が流れてくるとする。その水を得たいのであれば、流れている川から水を汲めば、常に新鮮な水を手に入れることができる。

しかし、誰もがそのように自然調和をしている中で、ある人が「私のうちの近くに川が流れてくれれば良い」と言い出し、その川から水を引く、そして今度は、「自宅の貯水庫に、自然に水が溜まってくれたらなお良いわ」と考える。エゴというのは、こういうものである。

その結果、良かれと思って溜め込んだ水は鮮度が失われ、結局、使えないものとなる。川下に至る水も減り、その一人の人間のために、どこかで迷惑を被るものが出る。

しかし、問題はそこでは終わらない。先ほど述べたように、エゴの強い人は、自分のエゴに気付かない(気付かないことにしている)のである。つまり、水の一件で反省するのかというと、エゴの人はこう考える「今回は、たまたま上手くいかなかっただけ」。

さらに酷くなると、周囲の人が自分に迷惑を掛けられている様が、まるで「私を中心としたストーリーが展開されている」と錯覚する。ドタバタ劇の中心に自分がいるからである。

つまりエゴの人が欲しいのは成果ではなく、他人より少し自分が中心であるという振る舞いが許されることである。

「エゴはやめたほうが良い」と言える理由は2つある。
 
まず1つは、そんなことを繰り返しても、全く成果が上がらないことである。先ほどの川の水と同様に、手元に残るのは腐った水だけである。

もう1つは、自然法則的に無理だからである。

世の中の全てのエネルギーは、循環するようにできていて、それは地球の回転や太陽系の回転を止めない限り続くであろうと言える。体の細胞でさえ、月日が過ぎれば全て入れ替わり、時間も常に流れている。その中で「私」が中心の世界を維持しようとしても、そんなことは無理なのである。

では、この世界の中心を「私」ではなく、何に定めれば良いのか?そういうことを、私達はよくよく考えなければならない。

一体、世の中の何が「本質」であるのか。何が「本物」であるのか。そういうことに思いを走らせるようなことを、真理の追求と言うのである。エゴが強ければ、そういう疑問を抱くことさえできない。

エゴを脱するにはどうすればいいのだろうか?それは、自分で気づくしかない。私自身、20代の頃は、エゴの強い人間であったと思う。「自分の力でなんとかしなければ」と思い、時には「自分の力がどこまで通用するか」などと考えていた。しかし、人の体を診るに当たって「自分の力では、到底どうすることもできないもの」があることを知る。努力に努力を重ねた結果、「自分の手持ちの知識や技術が、全くどれも通用しない」という状態に出くわすのである。今思えば「幸いにも」出くわしたと言える。

例えば、あなたがいま30歳だとして、いままで積み重ねてきた学歴や実績や知識や資格などによって、自分の生活や家庭や給料や立場が成り立っているとする。つまり、あなたのいまが成立するには、あなたの足場には、それが成立するだけの「理由」が積み立てられている。

しかし、あなたが成立する理由は、それが積み立てられている「場」でしか通用しない。つまり、あなたは、それらが成立する代わりに、その「場」に拘束されることになる。つまり、私の世界の中心が私の積み上げたもの達であると、それが自分の世界を狭くすることは往々にしてある。

とはいえ、自身にとって気持ちの良い場所かもしれない。しかし、ある日のこと、何かをきっかけに「他の場」へ足を運ぶことになったとする。するとそこは他の場であるから、あなたが自分の場所で積み上げたものも、あなた自身も何も通用しない。そういった場に遭遇した時に、それに拒否感を覚えず、せめてそういう場があることを認められるくらいに自身のエゴを無くしておいた方が良い。

私は、自分が中心である世界が楽しい世界であるとは、全くもって思えないのである。