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私ね、相手によって見せる面が違うんです。これは、キャパシティの大きな人間にとってはどうしようもない「現象」なんですね。私の周囲にいる一部の巨大な人達も、同じ感覚なので「皆、そうなのだなぁ」と分かるんです。

例えば、巨大なタイタニック号を間近で見た時、最初は一体これがなんなのか分からないかもしれません。「クジラ?」「ミサイル?」「夜になった?」「幻覚か?」、そんなことを考えながら、タイタニック号が目の前を通り過ぎて、少し遠のいた時に、やっと「ああ、でかい船だったんだ!」とわかる・・・そういうことは、実際にあります。

つまり、自分が小人だった時、大きな人物に出会っても、自分の視点からは一部しか(理解できる部分しか)見えないようにできているわけです。

人間というのは、一面ではなく「多面体」なんですね。どの角度で光が差し込むかによって、見える部分が変わるわけだね。それは、あなただって同じことなんです。ただ、あなたがいくつの面を使っているかはわかりませんので、せっかく多面体でも一面しか使っていなかったら、その面しか他人には見えないんですね。「あの子って、いつもああよね」なんて言われてしまうわけです。

私の場合、エネルギーの話をするときに、最高にエネルギーが発揮されます。さらに、エネルギーの初心者ではなく、すでに「エネルギーありき」の世界で生きている人と会うと、私の中心核は大きな輝きを放つんですね。相手のエネルギーが大きければ、深い話がゴロゴロ出てきます。それは、相手がそういう人だから見せられる面なのです。

かたや、イメージとして「近所のおばちゃん」と道端で出会ったとします。そのおばちゃんにしてみれば、「近所の若いにいちゃん」くらいにしか見られてないかもしれませんね。その場合、私は「近所の若いにいちゃん」」の面しか見せません。そのおばちゃんにとって、私は一生、近所のにいちゃんです。お互いさまかもしれませんがね。

それ以外にも、喫茶店で出会う店員、電車内で居合わせる人、誰かのセミナーで出会う人、スーパーですれ違う客、誰かの紹介で「こんにちは」と挨拶だけする人。人の出会いには様々な「角度」があるということです。そして、その角度によって、見せられる面は自動的に変わるわけです。

私のエネルギーの講座に申し込んでくる方がおられますが、中には、私と一度も会ったことも直に話を聞いたことがないのに申し込んでくる方がいるんですね。そういう人に対して、私は「やるな」って思うんです。良く見抜いたなって思う。だから、そういう人は、私の凄い引き出しを開いたりします。

私は、エネルギーの様々な法則を知っています。それらは、身体、精神、人生、ビジネス、お金、人間関係など様々なことをマルチに解決する知識です。しかし「そんな職業はないから」という理由で、「整体師」という肩書きを現代社会に合わせてタテマエとして用いています。エネルギーというものに対してまだコモンセンス(共通感覚)がない時代だから仕方がありません。

相手がお年寄りなんかになると「エネルギーとは」なんて説明は殆どしません。分からないからです。しかし、気づく人は気づくもので、不思議なことに「90歳以上の人」は、どういうわけか私が体のエネルギーを動かしていることに勘付いたりします。これは、人間の生命力がなせる技です。やはり、長寿の人は敏感なんですね。

「人を見抜く能力」はかなり人生を変えるのです。私はフェイスブックもしていますが、フェイスブック繋がりで、たまに私の投稿を見て、個人的に質問してくる人もいます。「先生、これに対してはどう思いますか?」って(そういうシーンは、表には出ませんね)。その時に、私は、相手の「勢い」を見ています(感じています)。凄い勢いできたら、それに見合う凄い回答をします。軽いノリできたら、軽い回答しか出なかったり、無視します。これは「現象」なんです。

自分が大きく叩くから、向こうからも大きく返ってくる。私は、非常に物理法則、つまり自然を尊重していて、それに従った動きをついしてしまうんです。それらの法則に施術でも、人生でもとてもお世話になっているからですね。相手が軽くつついてきた時に、相手以上に必死になって対応することは、ありません。できないんです。不自然は、のちにどこかに「ひずみ」を生むことを知っているからそれに反することもしません。

さて、あなたが、周囲のエネルギーに対して、ガツンと働きかけたら、エネルギーからも大きな反動が来ます。私は、エネルギーの講座を過去に何度もしていますが、その場において「思い切った話」をすることがあります。これを話すと一体、何が起きるのか想像がつかない・・・というでかい話ですね。

過去に最もそんなでかい状況を生んだのは、もちろん、エネルギーの話を初めて公開した講演会でした。その時の、反動たるや凄まじく、私は、話し終えた後、体が電気に打たれたようになり、ガタガタと震え、汗だくで微熱が出て、一晩中うなされました。しかし、それが「辛い」とは思わなかった。ただ、その時の反動が、それから数年経っても、未だに私の人生に影響を与え続けています。その時、会場にいた人たちの受け止め方も、そりゃ凄かったと思います。もちろん、そういう機会はこれからもあるでしょうがね。

ビリヤードの玉のように、人間ってのは、どういう角度で出会うのかによって、その行き先は違うんです。素晴らしい出会いをする時というのは、自分のエネルギーが非常に良い状態の時と相場が決まっています。

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またいずれ改めて私のプロフィール詳細を書こうと思いますが、私が整体師にデビューした時は、そりゃもう先輩から怒られまくってました。「怒られる的になる人」っているでしょ?おとなしく素直に言うことを聞く人に多いのですが、僕はまさにそれに該当したんですね。

毎日、毎日、怒られる。しかも殆どが「理不尽な説教」なんですよ。半年間怒られ続けました。
ストレスで胃が痛くなって、心底、職場に行きたくないと思う。いま現在、そういう状況にある人がいるかもしれませんが、私もまさにそれを体験したことがあります。
 
私なんて、整体師にデビューしてから、最初の半年間なんて、お客さんが全くつかなかったんですよ。誰にも指名されませんしね(笑)施術した人が施術終了後に全員「もう来ません」って言うんですから、そりゃ怒られますね。
  
・・・で、どうしたか?
 
ある日のことでした。怒られて、怒られて、本当にね、怒られ疲れたんです。それで、もう、怒られることに対して「悔しい」とか「悲しい」とか「負けるか」とか、いちいちリアクションを取ることが面倒くさくなったんですよ(笑)・・・なんか飽きたんです、その状況に。
 
それである日、いつものように怒られている時に「相手の怒りの感情は無視して、言っていることをただただ素直に聞こう」と思ったんですね。すると、先輩が怒ってきて、いつもなら残念な表情で話を聞くのですがそれをやめて「ああ、なるほど、分かりました」って聞いたんです。すると、先輩は、「あ、ああ・・・まあ、わかりゃいいんだよ」って、その日以来、怒らなくなりました。
 
 怒られなくなると施術にようやく集中できるようになり、怒られなくなった次の日から、患者さんに毎日指名されるようになりました。その変化は、2つ同時にバシっと起こりました。あまりにくっきりと線を引いたように状況が変わったので、非常によく覚えています。
 
私はその時、「うまい怒られ方」ってのを覚えたのでした。

みんな頑張ってるのは分かるんですよ。当時の私も頑張ってました。怒られたら、また頑張るでしょ。そしたらさらに「私だって頑張ってるんでよ!」って言いたくなるのね。

でもね、一番最初にやることは、一回、自分が「折れる」ことなんですよ。
私はそれ以来、新しいことを学ぶ時にいつもそうしますが、「自分も多少できるぞ」みたいな変な自信を学びの場に持っていかない。そんなちっぽけな自信は、パキっと折った状態で臨むんです。若い頃にそれを経験上、身につけておいて本当に良かったと思います。

例えば、何か新しい学びの場に行くとしますでしょ。で、その場に居合わせる他の人たちもいる。で、新しい話がなされるときにね、「なるほど、なるほど」って聞いている人は正解です。中にね、必ず「はいはい、そうですよね!」・・・っていう返事をする人がいるんですけど、「あ、この人、聞けてないな」って思います。自分は分かってるってことを「言いたい」だけなんです。

人間は「吸収」と「排泄」は同時にはできない。だから「聞く」ことと「言う」ことは同時にはできないんです。「聞くべき時に言っちゃってる」わけなんです。

人間ってね、「人の話を聞けなくなったら終わり」です。僕はね、年寄りをたくさん施術してきたから、それがはっきりと分かる。人生が終わるわけじゃないですが「成長」が終わるんです。

冒頭に載せた写真は、ケミカルライトです。
パキっと折ると、光が灯ります。それと同じ原理で、最初に折れないと本当には光りません。
 
怒られた時にね。「ちくしょー」「悔しい」「ちっ」「けっ」「むかつくなー」「なんだよあいつ偉そうに」「ああーー」「きーー」・・・これらのことを言ってる内は、飛躍的成長は無理です。

年をとるとなかなか折れられなくなるかもしれません。だから若い人は、早いうちに折れといた方がいい。それがね「自分が受け取る学びに対する敬意」なんです。相手に頭下げているようで、深いところではそうではないんです。「自分の人生が自分にもたらしてくれる学びに対して、敬意を払う」ことになるんですね。

「怒られ上手な人」
「怒られることの本質を理解している人」
僕は正直、ほとんど出会ったことがありません。

怒ることって、実は相当な「親切」なんです。怒るのはエネルギーがいります。私も見込みのある人には試しに怒ったりします。だけど、なかなか折れられないですね。たった一回の怒りでグラグラと揺らぎ、折れられもせずせいぜい凹む程度です。

「凄いチャンスなんだよ」って心の中で思っています。昔、「誰もが福井先生のようにはいかないんですからね!」って言われたことあります(笑)「それは違う」って思う。自分が23歳の頃に体験したから折れることの良さを知ってるんです。


人間のエネルギー講座の余談で話すお話があります。それが「天才の定義」です。

天才とは、ただ賢いのとは違います。何かに特化した才能を発揮する・・・のも、まだ天才とは言えません。

では天才の定義とは何か?それは、「モノゴトの陰と陽を同時にできる人物」です。これが正真正銘の天才です。なぜなら普通、「そんなことは不可能だから」です。
 
例えば、人が「夢を叶えよう」と行動する時、普通は、「夢が叶うビジョン」 や「そのための目標」を設定し、「夢が叶わないビジョン」を遠ざけ、とにかく前を向いて進もうとします。それすらも難しい時もあり、頑張って歯を食いしばって努力する人もいます。しかし、天才はそうではありません。
 
どうするかというと、「夢が叶うビジョン」と「夢が叶わないビジョン」の両方(陰と陽)を描き、どちらも許容することによって「両方の道に同時に進む」ということをします。しかし、普通はやそんなやり方を想像することはありません。聞いたところで、真似できません。
 
私の知る限り、(私が思うに)恐らくこれをやっていただろう希有な人物は、「パブロ・ピカソ」だけです。


眺めていて、思うことですが・・・施術家、セラピスト、カウンセラーの人で、「この人は、(例えるなら)薬を作ろうとしているのか、クライアントを診ようとしているのか、どちらなのかな?」と思うことがあります。

これは例えですから、私達、施術家は薬を作るわけではありませんが、薬を作るというのは、「新しい療法や、新しいセッション体型を構築したり、今まで解けなかった人間の心理や物理構造を解剖して、論理体系を緻密に構築する」といった「研究」のことです。

簡単に言いますと、レシピを作るように、中身を作っていく作業。

こういう作業において、どうして中身を分析して構築しなければならないかと言うと、最終的には「周囲に説明しなければならない」から(再現性)が必要です。(レシピは皆に伝わる形でなければなりません)

代わって、クライアントを診るという仕事は、薬を作るのとは違います。

もちろん、そういった知識を知っていなければなりませんが、体系構築の「研究をする」のではなく、研究結果をどこからか学び、自分が得た知識を用い、持ち前の技術でできることをクライアントに行い、「結果に起こす」ことが仕事です。

少し話が逸れますが、「私はまだまだ知識が浅いので・・・」と遠慮して触れないなど以ってのほかで、そんなことを言っていたら「自分が年を重ねて、人生を熟知した年寄りになるまであなたは人を診ないつもりなのか?」ということになる。多かれ少なかれ、手持ちの駒を組み合わせて、挑まねばなりません。

さて、施術家、セラピスト、カウンセラーというのを眺めていて「この人、どっちがやりたいのかな?」と思う時があります。

多かれ少なかれ、どちらが得意なのか方向性は別れるはずです。

「私はクライアントを診るのが仕事だ」と思うなら、さっき言ったように、学んだ知識で全力で向かえばいい。う~ん・・・と悩むことがあったら、それは「知らない」ことなのだから、その情報をどこかで得るのか考えることです。

では「私は研究が仕事だ」と言うなら、答えが出るまで黙々と研究をしなくてはいけない。まだ答えに程遠い研究報告はいらないんです。分かるまで、黙ってコリコリと研究をする。

施術家、セラピスト、カウンセラーは、「自分は、どちらが仕事として向いているのか?」ということを一回は考えなければならないと思う。

しかし、こう眺めていますと、この「どっちが得意なのか?」 ということを考える以前に、「もしかして、線引きさえできていないのではないか?」と思えるわけです。

時折、「混乱しているのかな?」と首をかしげます。施術、セッションも中途半端。研究も中途半端。どっちも大成せずに、あーでもない、こーでもないと何か分かったような体裁で(研究者というのは、分からないことが看板であるのに)自分は研究者なのだという風に論じている。

クライアントを診ながら、並行して研究をするのは大変なことです。二足のわらじを履かなければならないわけですし、話はもう少し複雑です。

例えば、クライアントと向き合っていて分からないことがある。では、それを研究しようと思ったとします。それならば、しばらくの間、「クライアントを診る」という姿勢を壊さなければならないのが本当です。

どういうことかと言いますと、その間、クライアントを診るなというわけでは無くて、少なくとも「私は、まだ十分に診れません。分かりません」という姿勢でいなければ、研究なんてできないだろうと。(実際、できません)

そういう姿勢で臨めず、どこか「私は、分かってはいるんですけど」という体裁をしていたら、研究者ではないし、研究しても終わらない。これは、私はやってきたから分かる。

「私は、分からないことがある」・・・と言いながら、研究をして、その研究に見通しが立ったり、一通り終わったとする。それが起きて、初めて人に「説明する」ということができるようになる。(そういうことを経過していない人は、本来、講座などしてはいけない。「講座をする」ということが、どういうことなのか?どうして私は講座を開いても良いと言えるのか?それらを十分に吟味せねば講座を開いても、思うように成果が出ない)

そうしたら後は、研究の成果を存分に使って、一度、壊した「クライアントを診る」という体制をもう一度、取り戻すことができる。

そういう視点が見えているのか?もし本当に見えていないなら、この業界と言うのは、この先も暗礁に乗り上げることになります。 

「クライアントを診る」なら、その仕事の重心は、クライアントを診ている瞬間とその場の結果なのだから、そこにこだわればいい。「研究をする」なら、黙々と机上に向かうのが重心なのだからそこに最もこだわったらいい。両方できていて余裕があるのなら、次の仕事でも探せばいい。どちらもできていないなら、どっちに重心を置くのか決めよということです。

他の業種では、既にそういった区分け整理がなされているから、気づかずとも分業になっている。施術家、セラピスト、カウンセラーの業界は、そういうことが成されていないし、する人がいない。そういう風に区画整理がなされていない業界は、形として不安定です。

明文化する人も見当たらないため、ここに記しておくことにします。


例えば・・・

500円を寄付する場に居合わせたと考えます。

たまたまそういう場に立ってしまった。


そこで、寄付しようとして、お金を取りだしたら、

隣から不意に「別に寄付しなくてもいいよ」と、

誰かに言われるとします。


すると、

「あ、やっぱりどうしようかな。もったいないからやめようかな」 

と考えてしまったと・・・

さあ、この出来事を皆さんどう考えますか?


・・・


よく「成功しよう!」・・・と言う方がいますね。

一回くらい成功してみたいんだろうなぁと思うんですけど、

例えば、その成功はお金が沢山入ってくることだとします。


入ってきたお金は、今度は、使わなければいけません。


「貯めておけばいい」と皆さん思うと思うのですけど

それは、自分の人生に終わりが無いと思ってるようなもので、

 全てのものに「終わり」があるんですね。つまり無になります。


だから、お金の終わりというのは、「無くなる」ということです。


「お金を使う」というのは、一つの「苦」ですね。

だって、何かをしなければならないわけですから、

「何につかおうか」と悩まなければならない。

そういう悩みは、人生にとって「邪魔」とも言えるんです。


では、冒頭の話に戻ります。


500円を寄付する場に居合わせて、

すんなりお金を払っていたら、

「どれだけ楽だったでしょう」か。

すんなり「終わらせる」ことができました。


しかし、「悩んで」しまった場合、どれだけ苦であるか。

また違う終わらせ方を考えて、右往左往しなければなりません。
 
 

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